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人身売買をされた後、毎日、夜泣きながら米軍の相手をした
基地村女性キム・ジョンジャの証言
私たちがいたずらに名乗り出れば、日本の右翼たちに格好の攻撃材料を与えるだけではないのか?
米軍基地村女性たちが国家を相手に損害賠償訴訟を準備する際、最も大きな悩みがこれでした。しかし彼女らは、政府が米軍のための慰安施設と女性たちを管理したと暴露しました。国家の謝罪を要求しています。歴史的真実は何なのでしょうか。私たちもよく知らなかった米軍基地村の不自由な秘密。キム・ジョンジャ氏の証言を見てみます。
私はキム・ジョンジャ(仮名)です。今年64歳になります。大きな持病はないが、最近、膝関節がちょっと痛いです。若くはない年齢だが、今日必ずお伝えしたい話があって、このようにインタビューを受けました。私は米軍慰安婦でした。基地村へ人身売買されて連れて行かれ、一生を米軍の相手をしながら無実の罪で生きてきましたが、誰も私と私の仲間たちの話を聞いてくれません。自発的に働いたのではないかという色眼鏡で見られました。
私たちが米軍から稼いだドルで国がこのように発展しましたが、その時、私たちを「愛国者」だと言っていました。しかし国家は、私達の存在を無視しています。私たちは年老いて病気になって行くでしょう。私のお姉さん達(基地村の仲間)が死んで行くのを、もはや見過ごせません。そのため今回、勇気を出しました。
私たちは国家を相手に損害賠償訴訟を開始しました。私たちがどうして国家に、こういう戦いを始めたのか。私の人生を通じて説明します。
訴訟に参加した女性122人全てがキム・ジョンジャさんと同じ経験をしたのではない。ただ、その被害の内容が似ている女性たちが多い。キム・ジョンジャさんの証言を代表例として見るが、基地村での経験は女性ごとに異なる点を注意してほしい。
米軍基地村で米軍と売春をしている女性は、米軍慰安婦、基地村女性、特殊業態部、洋公主などと呼ばれてきた。政府は慰安婦と特殊業態部を混用して使用してきた。1957年に制定された「伝染病予防法施行令」第4条に規定した「慰安婦」は1969年の改正法律でもそのまま使われ、1977年改正の際、削除される。しかし1990年代初盤までは市・郡の公務員たちは、米軍基地村女性たちを、韓国男性と売春をする売春女性と区分して慰安婦と呼んだ。(<米軍慰安婦基地村の隠された真実>39ページ)
1950年代の戦争時に父を失い、義父に性的暴行をうける
お金を儲けられるという友達の誘いに、16歳で家を出て向った
そこから地獄は始まった
その時代でも売春は不法だったが、米軍基地村だけ合法だった
公務員たちは1ヶ月に1度、
「米軍へのサービスをよくしろ」と言いながら、愛国者だと褒めてくれた
20歳に偽装しポン引きで、1日に3~4人ずつ相手をした
私は1950年1月に生まれました。どこで生まれたのかは分からないが幼い頃は天安で暮らしました。本当の父親は軍人だったが、戦争の渦中に私の事を見に来るために脱走兵になって、憲兵に捕まってしまいました。ただ戦闘中に死んだという話だけを聞きました。母は後に再婚しました。
私が12才のときから義理の父が、お母さんいない時だけ、私をレイプしました。義理の兄たちも私を触り始めました。それをお母さんに言うことも出来なくてじっと我慢して、16歳のとき(1965年)に家を出てしまいました。私は小学校の友達がいました。お金を稼ぐことができる場所があるというのです。紡織工場だと言っていました。その子と一緒にソウル駅まで汽車に乗って行きました。
ソウル駅から友達について、またどこかに行ったんのですが何か変なのです。紡織工場は見えず、どこかの建物に入りました。その建物には「看板」がついていました。1号室、2号室、3号室このように。私は旅館だと思って寝ました。私の友達は翌日しばらくどこかに行ってくると言って帰ってきませんでした。
そうすると(50代に見える)おばさんが現れました。私に付いて来なさいと言って。工場に連れてもらえると思いついていくと、私にいきなり「君の友達が借金を返さず逃げたから君が返せ」と言うんです。いくら話しても友達の代わり、お金の返済はお前がしろと言われました。どうやってお金を稼ぐのか訊きました。夜にお姉さん達が付いて行って見れば分かると言われました。
後に分かったことですが、私の連れて行かれた所は坡州市ヨンプンリで、米軍基地周辺で女性が体を売っている所でした。私の友達が借金を返済できず、私を売り渡したのです。
キム・チョンジャさんは人身売買されたのでした。しかし、これを理解するにはキム・チョンジャさんの当時の年齢が幼すぎた。友達の行動が憎かったが、キムさんは仕方なく友人の借金を返すことを決心した。
おばさんは私にクラブ出てお客さん(米軍)を連れてくるよう言いました。私は3日で、その置屋から逃げだしました。しかし路地で捕まってしまいました。もう一度逃げれば、島に連れて行って殺してしまうと言われました。
おばさんが鎮静剤をくれました。気持ちがよくなると言っていました。一つ食べたら(中毒で)二つづつ食べなければならず、三つ食べると、今度は四つ食べようになります。お客さん連れて来なさいと言われ私が怖くて話しかけられず、しらふでは恥ずかしくて客の誘致ができなかったので、私はその薬が何かも知らないままずっと食べました。
キムさんは後にこれが麻薬であることを知りますが、時すでに遅く、薬を食べなければ客引きに出ることができませんでした。キムさんは米軍を連れて来るまで宿所に帰れなかったと言っています。1、2ヵ月働けば借金が返せると思っていたキムさんはただ目をつぶって基地村で働くようになりました。しかし現実は違っていました。
そこで抜け出すことができないんです。借金はずっと増えていきました。
部屋代と化粧品・美容院費なども支払わなければならないので、いくら働いても返済できないんです。利子はずっと付きました。
普通の基地村には慰安婦女性たちの自治組織があります。姉妹会などの名前で呼ばれていました。基地村の仕事をするためには、ここで会員に登録しなければなりません。姉妹会では明らかに未成年者であることを知りながら会員証を与えて検診症(性病にかかっていないことを確認する書類)を発給してくれたと言う基地村の女性たちの証言が多い。普通、風俗店の主人は十代の子供たちに20歳と言うように強要したといいます。
キム・チョンジャさんの生活は地獄のようだった。普通、基地村の女性たちは一夜に米軍を3~4人ずつ相手をしないといけないのが普通だった。
もう、あそこが(秘部)がどれ程痛いのかわかりません。長い夜・短い夜(売春時間単位)を、いくらやっても終りが無いんです。長い夜の場合は、私の部屋で一晩中寝て朝早く出て行くので10ドルを貰えます。短い夜は私の部屋で30分から1時間で出ていきます。お金はすべておばさんが持って行ってしまいます。私は直接受けません。おばさんは一ヶ月分を計算してくれると言っていましたが、結局全部を奪って行ったのです。1~2ヵ月あれば借金を全て返済できたと思いましたがそれができませんでした。
基地村の10代の子供たちは計算ができませんでした。小学校もまともに卒業できなかった人々が大半だったので。おばさんは恐怖の対象なので、帳簿に何がどのように記録されるのか聞きたいことを聞くこともできません。そのような女性たちは、いや10代の子供たちは、一晩中泣いて徹夜で米軍の慰み者にされ苦痛に耐えていたのです。
逃げることはできませんでした。仕事に行くとき、いつも男(置屋で働く女性にヤクザ)をつけて監視します。お風呂に行くときは、自分の置屋のおばさんと一緒にお風呂に入ります。
警察に通報することもできません。おばさんの所へ警察が昼に遊びに来て、おばさんに女性を手配してもらい遊んでいました。その後、おばさんはタバコも渡していました。最初は、おばさんの弟なのかと思いましたが、隣ののお姉さんたちが刑事だと耳打ちしてくれるんです。おばさんが全部お金を立て替えているんだと。
「警察に通報しても私は助けてもらえない」
それを知ってしまいました。私が死んで初めて、ここを出られるということを理解したのです。
どうして米軍と結婚しようと思ったのか
一度は、勇気を出して逃げました。基地村に人身売買されて数ヵ月後だったと思います。派出所に飛び込みました。40代ぐらいの見える警察官が「なぜ人の借金おいて逃げて行くのか。返さないと永昌行く」と言うんです。おばさんが警察署にお金をわたしていたんです。結局再びおばさんの家に帰りました。小部屋の片隅に閉じ込められてまた米軍の相手をさせられました。
山に行って米軍の相手をしなければならない時が一番怖かったです。部隊が訓練に出れば、私たちも付いて生かされました。夜に暗くなったら毛布を一つ持って、おばさんについていきます。おばさんが歩哨立つ米軍と話をつけ中に入っていきます。
(中略)
基地村女性たちは訓練場にまで呼び出され、空を屋根して、土地を毛布として米軍の相手をしました。きちんと洗う時間もなかった。お金を貰い帰れば、おばさんが金を出せといいます。
(中略)
安全な性関係は基地村の女性たちには保障されなかった。
米軍はコンドームをしないといいます。私たちは拒絶をできません。そのため中絶をたくさんしました。切った子だけ17回です。
保健所は風俗店の主人が引っ張って行きました。強制的に中絶させるために。腸まで全部出てくる苦痛に耐えて女性は中絶手術を受けた。妊娠中絶後には体が殴られたように痛くても仕事に行かされました。おばさんたちは中絶手術で傷ついた体を顧みる時間も与えなかった。薬とお冷を一杯ぐらい飲んでまた働く場合が大半だった。一日休めば借金がどれだけ増えるか知ることができなかったからだ。
(中略)
私たちが米軍を誘惑してまで結婚しようとしたのか分かりますか? そうしないとここから脱出する方法がなかったからです。借金を返す方法がありません。逃げるとしても警察も誰も助けなかったし。私たちには国がなかったです。
いや、国家はありました。米軍に性的サービスをよくしろ教育する国家はあった。姉妹会会議が1カ月に1度ずつ開かれれば、女性たちは参加して教育を受けなければならなかった。そうでなければ営業ができなかったからだ。会議に行くと憲兵、C.I.D.(米軍基地の犯罪捜査課)、保健所職員、警察署長、郡庁公務員たちが皆来ていました。米軍はスライドを利用して性病について説明もしました。
彼らがいつもいう言葉がこれです。
お嬢さんたちはサービスをよくしてください。米軍には絶対悪口を言わないでください。バイミー・ドリンク(Buy me drink、お酒をおごってください)と言ってください。そうすれば東豆川に米軍たちがたくさんやってきます。そうなれば韓国も豊かになります。そして私たちをドルを稼ぐ愛国者だと称えました。
(中略)
一種の精神教育のようなものだった。女性らはなぜ、このような教育を受けなければならないかと思ったが、国家が老後を解決してくれると言ったから、それを受け入れたと言います。
懸垂(東豆川市広岩洞一帯)に工場を建てて、下の階にはかつら工場、上には寮で作ると公務員たちが説明しました。年老いたら、そこで私たちが生活できると言いました。土地を全部買っています。だから一生懸命にドルを稼げと。
私たちは老いても行くところがあるんだってそう信じていました。しかし、その約束は何一つ守られたことはありませんでした。おばさんは私たちが働いて稼いだお金で家も買って、土地も買いました。そんな悪名高いおばさんは後に京畿道議員になっていました。
(中略)
キム・チョンジャさんは(1965年に)坡州市ヨンプンリに売られた後、東豆川、竜山、群山、平沢とあちこちを転々として40代半ば(1990年代半ば)に基地村を抜け出すことができたけれど、また、東豆川(トンドゥチョン)基地村に戻ったという。
その時は、他の選択の余地がありませんでした。どこを逃げても、やくざを送って私を捕まえに来ると思いました。またどこの工場に就職するにも私の身分証を提出しなければならないが、私が警察に行って住民登録証発給すれば置屋に残してきた借金のために警察が私を捕まえに来ると思いました。それでしかたなく・・・
キムさんは「自ら基地村で生きてきた女性たちを被害者と見なしてよいのか」と言う質問に、こう答えた。
君たちが喜んで(基地村で生活)したのに何が不満なのか?
という、そんな質問をたくさん言われます。しかし韓国政府が米国を引き入れなければ私たちがこうなったでしょうか?知って見れば、その時代も売春行為は法律で禁止されていたんだんです。米軍の基地村だけ売春が合法だったです。朴正熙政権がどうしてあんな法を作ったのでしょうか。私はよくわからないが、米軍留めておこうとそうしたんじゃないですか。私たちに、ドル稼ぐようにするために
米軍基地村の形成過程に国家のいかなる政策が影響を及ぼし、それが正しいかは議論の余地があり得る。しかし、20歳にもならない少女たちが基地村に売られてきて、そこから抜け出ていないのに国家が放置したことは、議論の余地なく国家の責任を問うしかなさそうだ。キム氏は自分の幼い時代を国が賠償しなければならないと信じている。
(中略)
日本軍慰安婦も人身売買されていった人が多いと聞きました。日本軍慰安婦は被害者と認定するのにどうして米軍の慰安婦の被害者たちには、国家は目を閉じているんですか。どうして責任を負う人がないかです。あなたの娘たちが逮捕されて連れて行かれても黙っているんですか。
仲間が年老いて病気になって死んでいます。国家を相手に訴訟を準備してもう亡くなっていくんです。私は謝罪を望んでいます。年老いて病気にかかった米軍慰安婦に対し国が責任を負ってくれることを願うのです。それが国がすべきことだと信じています。(引用はここまで)
引用:ネイバーニュース/ハンギョレ
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=
sec&sid1=102&oid=028&aid=0002238248
だから賠償の責任は無いゴスミダ