ただの武器が世界への宣伝や、断片的な評価のおかげで、実際の性能よりも優れた武器として優遇される場合がしばしばある。実際に敵に与える恐怖や、逆に味方の士気を上げるために、わざとそのような雰囲気を造成することもある。
そのような点から見ると、Bf 109やスピットファイアが、未だに不朽の名機とされる理由は、拳を交えた相手も素晴らしいと認めただけに、その能力や戦果が素晴らしかったからだった。
ところが、最初の交戦時に得られた少ない情報のみによって、最強の待遇を受けながら、現在も漠然とそう思われる武器がある。零戦と呼ばれる日本海軍のA6M戦闘機(零式艦上戦闘機)がまさにその主人公である。もちろんだからといって、偽物なのに、もっともらしく高級品を真似したという話ではない。基本的に、良い戦闘機という評価は正しいがA6Mは性
能以上に誇張された評価を受ける代表的な武器だと言うことができる。
最高の戦闘機を希望する1905年日露戦争に勝利し、帝国主義クラブに加入した日本は、島国的な特性を生かし、強力な海軍力拡充に拍車をかけ、1940年代初めには、米国、英国に次ぐ海軍力を保有している国となった。このような日本海軍が海軍歴史上に主要な業績を残したことが一つだけある。それは空母運用に関連した部分である。1922年に就役した鳳翔のように、日本は既存の艦艇を改造した形ではなく、世界初となる設計段階から専用空母として、空母を建造して運用した国だ。
根深い巨艦巨砲主義を信奉して最後まであきらめなかったにも関わらず、別途に航空母艦艦隊を利用した遠距離打撃方法を研究して実戦にも応用した。これは航空母艦を戦艦中心に構成された艦隊の補助戦力程度にしか考えていなかった米国や英国とは大きな違いであり、太平洋戦争初期に日本が相次いで勝利を収める原動力になった。このように航空母艦の実力を高く評価していた日本は、当然、ここに搭載する艦載機に多大な関心を持った。
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1936年、日本海軍はA5M戦闘機(96式艦上戦闘機)を開発して1000機ほど運用した。固定式降着装置が付いている旧時代的なデザインだったが、機動性だけは後継機であるA6Mより優位にあるという評価を受けたほど優れた。しかし戦闘を行った相手が一枚下だった中国軍や、将来南方方面の戦闘を念頭に考えれば、必然的に直面する米軍や英軍戦闘機と対戦するには、いろいろと足りないと感じた。
そのため日本海軍は、次世代の航空母艦搭載戦闘機の開発に乗り出したが、この時、開発業者に要求した条件がかなり難しいものだった。A5M程度の機動力に時速500km程度の最高速度、10分以内に2万フィート上昇、長距離航続と操縦が容易なければならないというものであった。実際に艦載機は陸上で運用する戦闘機に比べて制約要素が多いにも関わらず、日本海軍は、噂でもてはやされるドイツのBf 109や、英国のスピットファイアレベルの戦闘機を要求したのである。
生存性を犠牲にして得られた性能速度を含め飛行に関連するほとんどの能力は、エンジンの力に大きく左右されるが、技術力が不足していた当時の日本に、このような要件を満たすことができる高性能エンジンがなかった。しかし三菱重工業のエンジニアである堀越二郎は、開発指示から、わずか2年後の1939年に目標を達成した戦闘機を開発することに成功した。彼は強力なエンジンがない場合は、機体の重量を減らす方法で問題を解決した。
堀越は苦心の末、コックピットとエンジン搭載部位に当然搭載される装甲板を削除し、被弾時に燃料漏れを防ぐ防弾タンクを省略し、機体を軽量化して飛行性能に関する要求条件のほとんどを満たした。一言でパイロットを保護するための最小限の安全装置もないという話だ。実際にはエンジニアはしたくなかったが、軍部は、そのような省略をおこなってでも性能のよい武器を作ったという話だ。
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だからといって、当然の話だが、ただ重量だけ減らすだけで無条件に飛行性能が良くなったりはしない。A6Mはフラップを介して十分な揚力を得ることができていたので、低速での機動性に優れている。翼の構造、ランディングギアの収納方法などでも登場当時の基準でみた場合、同時代機をリードしたという評価を聞くほど開発に多くの努力が注ぎ込まれた。
各種実験の指標に満足した軍部はA6Mを1940年7月戦線に投入した。丁度中国と戦争している最中だったので、開発と同時に実戦テストが行われたわけだ。1940年9月13日、進藤三郎大尉が率いる13機からなるA6M飛行隊がソ連製のI-15とI-16からなる27機の中国空軍飛行隊と空中戦を繰り広げ、零戦の損失なしに、すべての中国戦闘機を撃墜させる戦果をおさめ、戦争史に燦然とデビューした。
6ヶ月後には終わった全盛期以後、中国軍と行った数々の空中戦でA6Mは圧倒的な戦果を上げ、これらのニュースは、すぐに米国の情報当局に流れた。ところが米国は、中国の能力が低いだけだと決めつけ情報をあえて無視した。しかし、その裏には日本の技術力を蔑み無視する根強い慢心があったことは否めない。日本が積極的に対外的挑発を行い、縄張りを広げていきつつはあったが、米国は近所の子供が喧嘩をしている程度の認識でしかなかったのだった。
1941年12月の真珠湾奇襲を皮切りに、日本は待っていたかのように、東南アジアへ潮のように押し寄せて入った。これらの侵略戦争の先鋒は空母艦隊であった。この時、米陸軍、海軍の主力機であるF4F、P-40を圧倒し、日本艦隊を徹底し警護していた主役がA6M戦闘機だった。米軍は自分たちよりも、遥かに格下と見ていた日本の戦闘機が、到底相手することができないことを悟って衝撃を受けた。
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初めてA6Mと対戦した米軍パイロットは胴体に描かれた、大きな赤い日の丸を見つけてミートボール(Meatball)と卑下して呼んだが、すぐに恐怖を受けることになった。思っていたよりも速い速度で飛んで、急激な機動力で自分の背後につくA6Mによって空しく襲撃されるのが常であった。そうやってA6Mの神話が開始されて以後、最高の戦闘機の一つとしての待遇を受けることになった。
しかし、A6Mは太平洋戦争勃発から6ヶ月後にはトップの座から去ることになった。機体の性能差に加えて、日中戦争での経験を積んだ日本のパイロットたちに比べて、米国のパイロットが経験が不足していた点が、最初に米国が苦労をたくさん食べた理由だった。しかし、継続した実戦の過程で、米国はThach Weave戦術など新たな戦いのテクニックを考案して、ある程度の対応が可能になった。さらに程なくしてF6FやF4Uが新たに登場すると、瞬く間に状況が変わった。米国の新鋭機がA6Mを圧倒したのだ。
第2次大戦当時、各国の「看板機」だったBf 109、スピードファイア、P-51などは、戦争末期まで継続したアップグレードが行われ、最高の性能を自負していたのとは比べれば、このようにA6Mの没落はあまりにも速かった。構造的に性能を向上させる限界が多かったためであった。
果たして本当に伝説だったのか結局結論としては、たった6ヶ月間の戦果だけで、A6Mが未だに最高の性能の戦闘機として位置づけられているということが、間違っていると言える。それはデビューが脳裏に残るほど印象的であり、これを長らく誇りにしようという日本の宣伝のために、このような評価になったとも言えることができる。もちろん戦争初期に置いて、A6Mの優れた戦果を全て無視することはできない。
しかしここにも、もう一つの錯視現象がある。
太平洋戦争が米国と日本の対決だったという点を念頭におく必要がある。当然、戦争中A6Mの相手のほとんどは、米国の戦闘機だった。ところが、A6Mのデビュー当時、
米国は戦闘機の分野において、あまり大国ではなかった。巨大な海洋で隔離されていたので、戦闘機の開発を相対的に疎かにしていたのである。そのため複葉機から単葉機に進んだ過渡期に製作されて、戦争勃発当時、主力機として使用したF4F、P-40は、当時の戦闘機に比べて性能で後れをとっていた。
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それに比べてA6Mはそれなり最新の戦闘機だった。1970年に製作された映画「トラ・トラ・トラ」でA6Mを操縦し、空母に着艦した艦隊作戦参謀の源田が、航空隊長の淵田を迎えて話を交わすシーン。
淵田「これが零式戦闘機だというのか?」
源田「そうだ、メッサーシュミットやスピットファイアより良い戦闘機だ」
ここでもわかるように、日本も同時期に登場したBf 109やスピードファイアを比較対象としていただけに、将来、戦争をすることになる米国の戦闘機は、あえて比較する価値もない低性能の戦闘機で見ていた。
ところが日本はA6MをBf 109やスピットファイアレベルと感じたが、いざ客観的にこれらと比較するのは困難なレベルであった。もしA6Mが最初からこの程度の優れた戦闘機と交戦し評価を受けていれば、明らかに他の評価が出てきたのだ。
A6Mはそもそも多くの部分を省略した機体として作られたので、アップグレードで性能を向上させるには、当初から不可能であった。良い戦闘機だったが、かといって神話とまで言及されるほど優れてはいなかった。
それでも開戦から僅か6ヶ月間だけを見て神話の隊列に置くことは、何かが間違っているということができる。結局、A6Mの神話は、最初から誇張され、今日まで漠然と語り継がれてきた歪曲された伝説でしかないということだ。