韓国の掲示板に「1870年代、エジプト観光をする日本の武士たち」というスレッドを紹介します。
1870年代、エジプト観光をする日本の武士たち
引用:http://bemil.chosun.com/
http://goo.gl/Jhs3uO
>>>記事の翻訳
1870年代ならば、我が国が辛未洋擾を体験して、外国勢力を国内へ入れてはいけないと決意していた時、日本は早期に国を開放して、西洋文化を受けて、あのようにアフリカ観光まで行っている。
砂漠に観光は熱いという事実を知っているのか、全ての日本人が編み笠を使っているのが目につく。
管理人捕捉:
この写真は1864年に幕府がフランスに送った「横浜鎖港談判使節団」が、途中に立ち寄ったエジプトで撮影したもの
>>>韓国人のコメント
韓国人
当時、朝鮮が米国による辛未洋擾の武力に対して反発し、先進技術や文化の受け入れを拒否していた時、チョッパリの旧勢力が先進改革勢力に敗れて、先進技術や文化を早期に受け入れ、皮肉にも朝鮮と日本の行く道が分かれた歴史の転換点でした。
韓国人 大陸の時代⇒海洋の時代⇒宇宙の時代
韓国人 当時、朝鮮が日本のことを非常に軽く見ていた風潮に、警戒する知識人がいました。
韓国人 伊藤博文は1860年代に欧州へ留学に行って日本憲法を作った人です。日本が先んじたのでなく、私たちと時代が間違っていただけ。
韓国人 朝鮮は当時の日本の飛躍的な発展と比較すれば、何の価値もない国だと見るのが現実的な見方でしょう。清国が外交紛争で朝鮮は自らの属国だとして外交権すらなかった・・・ 韓国人 実際は、韓国が先進技術や文化を拒んでいた訳ではないんです。当時の朝鮮には独自の外交権が無かったので・・・ 漂流していた外国人を助けた際に、お礼として像を受け取るかどうかさえ、清国の許諾なしでは受け取れませんでした。
韓国人 壬辰倭乱前の朝鮮通信使による、日本に関した見聞録の内容を見れば、すでに秀吉の時から日本が朝鮮よりも先んじていました。 韓国人 ヨーロッパの歴史を読むとヨーロッパ大陸のごく少数の強大国を除けば、必ず1回は弱小国に転落したり、植民地になったりと、一度も滅亡したことがない国はほとんどない。
強大国でも時期によっては、国土が蹂躪され、一部の領土が他国の手に渡るなど浮き沈みを体験したことのない国は1つもない。
私たちを見れば、後金が大陸を平定したときに、漢の王朝を非常に大切にして、力をなくしたがもかかわらず、名分と義理を立てて、完全に服従しなかった国を吸収せず、王朝の命脈を残したのは、別の見方をすれば温かい配慮とも言えます。
様々な理由はあっても、属国として管理されても、内政干渉が激しい程度で終わったのは幸運でしょう。もし少しでも歴史が異なれば、今頃は中国の歴史を習っていたり、東南アジア地域のように百年を越える植民地の歴史を習っていたかもしれません。 韓国人 日本人は当時から、遠くまで出かけて行ったんですね。あの人達は食べ物はどうしたんでしょう? エジプトに対する印象はどうだったんでしょうか? とても気になります。
韓国人 日本の1万円貨幣に描かれた人物であり、東アジア(韓国、中国、日本など)で使う各種外来語を漢字語に整理した、日本近代思想の父と呼ばれる福沢諭吉など大多数の明治維新時代の主役のほとんどが、あの時代ヨーロッパとアメリカさらには世界各地を歩き回って、多くの知識と見識を広げました。日本は遥かに以前から、オランダ商人に追従して18世紀、東南アジアに侍と日本女性を傭兵と売春婦として輸出もしていました。
韓国人 コメントを見ると植民史観のコメントが沢山ありますね。私は日本の成功(?)と呼ばれている近代化の要因は、日本の地政学的位置と歴史、そして文化の違いとして解釈しています。
単純に海外の先進勢力との交流と、それによる文化的優劣のみを解釈するのなら、結果的に日本より先に西洋勢力と接触した中国や、似たような時期に東南アジア諸国も、当時の日本のように先進国になることが出来たということになりませんか?
そして、朝鮮がかなり遅れている国であり、清の属国だった点も否めませんが、総体的に明治維新の侍たちが打倒した、幕府政府も中国に朝貢する主従関係でした。
日本通商条約対象に中国も出てきます。中国が日本よりも低迷していったのは清日戦争以降と見なければなりません。
韓国人
今日付けの新聞に、コロンビアで銀を積んだ昔のスペイン船が発見されたと報道されていました。南米で掘り出された銀はどこへ行ったのか? 全て中国に行きました・・・ それは中国で陶磁器と茶を買うためです。
中国で購入して、ヨーロッパに持ち帰れば、ヨーロッパの王と貴族達が消費し、途方もない付加価値を持っていたということです。
日本が1870年代にエジプトに行ったことは全く驚くべきものではありません。
中国からヨーロッパに供給されていた陶磁器がある日突然なくなりました。明国が滅びて清国が誕生したからです。陶磁器の輸入が切れたヨーロッパでは大騷ぎが起こりました。
その時、ヨーロッパに陶磁器を輸出する国が突然現れたんです。それが日本です。壬辰倭乱の時、我が国から連れていった陶工たちが日本で陶磁器を作っていました。
この時、日本がヨーロッパで認知され始めます。アジア大陸の東の端っこにあるにもかかわらず・・・
清国が安定し陶磁器の輸出を再開しようとしましたが、その時まで百年程度は日本がヨーロッパに供給する陶磁器がヨーロッパを独占していました。
今の日本を作ったのは、壬辰倭乱の時に我が国から連れて行った陶磁器技術だったと言えます。
韓国人 日本は封建制国家で幕府時代にも地方の有力者は、中央政府も手が付けられませんでした。特に薩摩が有名で、彼らは我が国の壬辰倭乱の時、李舜臣将軍を戦死させた日本軍部隊として有名です。
日本で有名な「島津製作所」という会社がありますが、この「島津」というのは薩摩藩の名前から取ったんです。この島津がどれほど強かったかと言うと・・・ 琉球を知っていますか?
ここに本来、独立国で中国の保護国なのに、薩摩藩の軍が占領して日本領にしてしまいました。日本の幕府は事後に追認しかしかありませんでした。それが現在の沖縄で、日本の領土になってしまうキッカケでした。
一介の地方有力者の軍隊が、どうしてこのような力を持っていたか? 壬辰倭乱の時に連れて行った陶磁器技術のためです。
この薩摩が、同じように日本幕府に抵抗的だった長州と連合して幕府政府をひっくり返して、日本を近代化し、帝国主義の日本、今日の本を作った勢力です。
多分、あの写真の中の侍は薩摩や長州の方々でしょうね。
韓国人 一体何故、ここで植民地史観が出てくるのか? 事実でなければ正々堂々と反論すれば良いのに、なぜ植民地史観??? 白を白といえば植民地史観で、白を黒と言えば愛国史観になるのか? 韓国人 この写真はおそらく、明治維新政府が1871年に米国と欧州に派遣した岩倉使節団の写真のようです。100人の政府官僚を派遣しました。約2年間、地球を一周回って、米国と欧州を回って帰ってきた彼らが、日本を西欧式に改革しました。
韓国人 韓国も高価武器を購入せず、全国民に銃を1丁づつ与えて、愛国史観で精神武装させれば、米国や中国や日本に勝利できるでしょう。
韓国人 なぜここで植民地史観が出てくるのか・・・ とにかく朝鮮時代に自分たちだけが賢い、自分たちだけが世の中を知っているとして、世界の流れを無視した結果、どうなったのか・・・
日帝支配の苛烈な36年間は、私たちが自ら招いたと言っても過言ではない。 韓国人 朝鮮から連れて行った陶器の力で、李舜臣将軍を戦死させ、欧州に存在感を示し、国を近代化させ、列強の仲間入りをしたのなら、その優れた陶器の製造技術をもっていた当時の朝鮮は、なぜあのように貧しく、中国の属国から自力で抜け出せず、国を近代化させられなかったのか? あなたの主張はとてもミステリーだ・・・
史実は有史以来、朝鮮種族は現在に至るまで奴隷(乞食)民族なのを
否定しても歴史と食い違うので疲れるだけだよ。